法事、法要、ご供養、お葬式は、浄光寺にお気軽にご相談ください。
生前に仏さまのお弟子の証に戒名(法名)をいただきませんか?
仏教を学んでみたい、法話(住職が思うことを感性に任せて話すだけです。)
仏教勉強会に参加されませんか?
来年無料で毎月第4土曜日午後1時半から開講してます。
月忌法要のお勤めをみんなでした後に、
仏教についてのいろいろな疑問を取り上げて、みんなで一緒に考えてみましょう。
※拙寺は、寄付をお求めすることはありませんし、
お布施にかかわらずまごころ供養させていただきます。
檀信徒会への入会強要も一切いたしません。全く自由です!!
お墓も、拙寺でお盆やお彼岸の法要を執行させていただきますが、
皆様方に宗教・宗派の強要は一切いたしません。
お約束いたします。全くのご自由です。
いいなと思ったら、入ってください(笑)
そういうお寺でありたいものです。
※ お困りごとがあれば、率直にご相談ください。
誠意をもって対応させていただきます。お寺ですから、損得抜きにやるべきことはします。
(住職談)衆生済度のお手伝いを阿弥陀さまのお手伝いをするのが、坊さんの使命です。
住職は無類の動物好きです。
人間同様に供養させていただきます。ちなみに副住職はチワワの「大吉」くんです。
その下に弟子のトイプードル「ラッキー」くんがいます。
そして、3年後をめどに、お寺でフリースクールを開校します。
学校に行けなくなってしまった。
イジメにあっている。人と話すのが苦手、無理をしなくてもいいんです!!
イジメにあって嫌な思いをするくらいなら、学校に行かなくていい。
子ども時代を、想像力豊かに楽しく、伸び伸びと過ごして欲しい。
それだけです。
特に勉強は教えません。
読み、書き、話すと、パソコン(ワード、エクセル、パワーポイント)と、
朝のお勤めだけ。お経は覚えてもらいます。
しかし、浄土真宗のお寺なので、修行はしません。
修行をご希望の方には、真言宗、天台宗、臨済宗の厳しいお師僧さまを紹介します。
修行であろうとなんであろうと、暴力、イジメは絶対に禁止です。
こどもたちは、世の宝です。お寺は子供たちを守ります。
目から鱗(ウロコ)の学校にします。どうか、ご意見をお聞かせくださいね。
浄光寺のロゴサインは、
天台宗の開祖で比叡山延暦寺を建立された
伝教大師最澄さまのお言葉からいただきました。
「一燈照隅 萬燈照国」(いっとうしょうぐう ばんとうしょうこく)
「小さな灯でも、その灯火が増えていけば、世の中が明るくなる。」という意味です。
その一燈を中央の炎で、緑色としたのは、癒しと憩いを表現するためです。
ちなみに、上に黄、紫、紅色の玉ですが、「きむらご」といいます。
桓武平氏御浦(みうら)のルーツである相模国三浦氏の旗印を表しています。
浄光寺の小さな仏教の灯が広がっていくことを願ってデザインをお願いしました。
●浄光寺の由緒
千葉県印西市木刈(千葉ニュータウン)に新しく建立しました、真宗浄興寺派の寺院です。伝統を伝承しつつ、形式にこだわらない、明るく、思いやりのある優しい寺院を目指します。本山・浄興寺は親鸞聖人が最初に建立された寺院であり、780余年に及ぶ歴史があります。戦国時代の戦火を逃れ、上杉謙信公の庇護を受け、春日山城の麓新潟県上越市高田に落ち着きます。一時は越後、信濃、出羽三国に
多くの末寺を抱えておりました。江戸時代に真宗大谷派(東本願寺派)に与したことから、急速にその影響を弱めることになりましたが、戦後に独立し再興しました。
浄光寺は、その末寺として浄興寺の関東別院の機能を果たすべく、
伝統法儀を伝えていくのはもちろんのこと、従来に檀信徒に捉われず、個人の宗教として、広く真宗のみ教えを広めてまいりたいと考えています。
宗教の押し売りや、寄付の強要は絶対にいたしません。信仰や信心はご自身がどう思うか、どう感じるかです。私の信条とあなた様の信条とは違うはずです。違うということを前提に、問題提起していきます。あとはご自身でお考えください。難しい仏教の本を教科書にするのではなく、五木寛之先生の「蓮如」「他力」「仏教」や、今話題の終活セミナーについては、下重暁子先生の「最後はひとり」や「家族という病」など、人生の歩き方を考えてみたいと思っています。お気軽にご来寺ください。
上の立派な本堂は、新潟県上越市高田にあります。拙寺、本山の歓喜踊躍山浄興寺になります。
拙寺は、プレハブの32畳、通しみ堂の粗末な建物です(笑)
お布施について
僧侶が法要を営むことはビジネスではありません。あくまでも法施(*1)です。遺族も葬儀での「お布施」は法要のお勤めへの対価として支払うのではなく、
あくまでも財施(*2)として行うのだ、というのが本来の考え方です。
*1法施=正しい仏法の教えを説き、精神的な施しを行うこと。
*2財施=仏教の教えに感謝を表し、財物を施すこと。
ですから、ご心配なく!!こちらから寄付やお布施の強要することは絶対にいたしません。
お悩み事など、ご相談は随時対応いたします。お気軽にご連絡ください。もちろん秘密厳守、真心込めてご相談に乗ります。(無料)また、宗教の押し売りは絶対にいたしません。僧侶として、阿弥陀様のご誓願である衆生済度(救済)のお手伝いをさせていただくのが 、私たちの使命だからです。
生前にご本人がお決めになったプランで、通夜、葬儀、納骨、永代供養まで執行します。ご往生後にご親族の方々に経済的負担をおかけいたしません。
なんと言っても、気になるのがお布施。お気持ちでいいのですと言いながら
「ほんとはいくら?」僧侶のくせに下世話な話で恐縮です。大勢の方からご指摘やご質問をいただきました。お勤めは法施ですから、仏さまへの感謝行です。布施(お金)を対価としていただくものではありません。
精神世界に現世界の金銭価値で考えるのは難しいですね。日々のお勤めは、一切、お布施に拘りません。これはお約束します。ご要望があれば来院されなくとも、真心を込めてお勤めします。年忌や月忌は、仏さまに感謝のお勤めをさせていただくので、お布施には拘りません。(交通費のみ実費でお願いします。ただし、印西市・白井市・八千代市・船橋市は無料)
法要について
法要は一般に「先祖供養」と捉えられますが、これは、本来仏教でいうところの「供養」とは意味が違うように思われます。 wikipedia(ウキペディア)によりますと供養(くよう)とは、サンスクリット語のプージャーまたはpūjanā(プージャナー)の訳で、仏、菩薩、諸天などに香・華・燈明・飲食などの供物を真心から捧げることをいいます。
日本の民間信仰では死者・祖先に対する追善供養のことを特に供養ということが多いですが、これから派生して仏教と関係なく死者への対応という意味で広く供養と呼ぶこともあります。また動物等に対する供養、さらには針供養のように生き物でない道具等に対する供養もあります。
本来は仏・法・僧の三宝を敬い,これに香・華・飲食物などを供えることが、
いつのまにか、死者の霊に供え物などをして,その冥福を祈ること(追善供養)になってしまったようです。
本来は仏さま、教え、そして、僧侶と「ご縁」があった事を感謝する行為が供養ですが、私達がこうして生かされている「ご縁」を喜ぶ意味もあります。日々の生活の中で、様々な命をいただかなければ、生きられない私たちがいます。肉や魚を食べない日はほとんどありません。わたしたちは、命をいただくことで生かされているのです。これは様々な命のご縁と関わり合いを持っているという事に感謝すればそれが供養です。その事に関して感謝し布施をするのが供養で、僧侶が来てする法要を指すわけではありません。お釈迦さまが説かれた法が、時代が下がるに従って、1970年代には先祖や水子が祟るとか迷うとか、共に生きた命として感謝する意味から、遠く離れてしまって、祟りや穢れとしての供養が占いブームと共に広まってしまいました。先祖や水子を追善供養の対象にされる場合は、「たたり」をなすような怨霊として、「先祖霊」や「水子霊」とよんでいます。
供養とは、「尊敬すること」、「礼拝すること」、「尊敬をもって受けとること」
などの意味ですが、いつの間にか死者に対する追善供養、餓鬼に対する施餓鬼供養が行われるよになりました。その流れに先祖供養や水子供養になりました。身近に悪いことがあると、「先祖や水子が祟ったのでは」、「先祖が迷っているのでは」と考え、お経を追善供養に使って、「先祖に成仏してもらう」「水子の祟りを鎮める」とし、身近な禍いを除こうという考え方が、先祖供養・先祖供養という考え方にあります。
自分自身に何か問題が起こるたびに、「水子」が、「先祖」がと、水子や先祖を怨霊のように考える考え方には、仏教本来の「尊敬すること」、「礼拝すること」という供養とは、正反対の考え方なのです。
一つひとつの出来事や問題をも教えに問い、み教えを聞いていこうというのが、浄土真宗であります。
み教えを聞くことによって、「自分中心の得手勝手な自分」を知らされるとともに、「都合が悪くなると、水子や先祖にまで責任をなすりつける恐ろしい私たちに、かかりきってくださる阿弥陀如来」に遇わせていただくみ教えが、浄土真宗です。私たちは、この生を繋ぐために、一日たりとも食事をしない日はありません。
そこで、何を食べていますか?お肉やお魚など、生ある物の命をいただかなければこの命をつなげることはできないのです。殺生せずには生きてはいけない私たちなのです。堕胎したくて堕胎した方などこの世に一人としていません。断腸の想いでやむに已まれず、生まれて来る筈であったわが子の生を断たざるをえなかった。
そんな辛い悲しい想いに阿弥陀さまは必ず寄り添ってくださいます。
浄土真宗では「亡き人をしのびつつ、仏の教えにあう」「私自身のありように目覚める」ことが、法要の意義としています。
水子供養について
そもそも、水子といえども人間であったことに違いはありません。いわゆる水子供養が数十年前から流行り出した背景には、親の罪悪感や不安感を煽り立てたということがあります。浄土真宗では、水子法要・供養として特別に法要は行いません。仏教の教えからいえば、お母さんのお腹に受胎した瞬間から、“いのち”の誕生として捉えますから、この世に誕生してこなかったけれども、当然立派な人間として受け止めるべきでしょう。世間一般では、水子の供養をしないと私たちに祟りがくる等の迷信を耳にしますが、断じてそのようなことはありません。何か自分に都合が悪いことが起きると、水子に責任転嫁するかのように迷いや不安をあおるような者がいますが大きな間違いです。種々の原因・理由等があるにせよ、尊いいのちが亡くなったのは事実であるわけですから、この現実に目を背くことなく受け止めていくことが大切です。浄土真宗では、亡き人は阿弥陀様の救いによってお浄土に仏としてこの私たちを照らし続けて下さっています。つまり、通常先立たれた亡き方々と区別することなく法要を執り行います。当院では、浄土真宗の教義と作法に則り、法名をお付けし通常の年回忌法要等をお勤めいたします。命の尊さに触れていただく仏縁として「追悼法要」をお勤めいたします。
【寺小屋】お寺は、人を育てる学びの場です。
【駆け込み寺】お寺は、今生きている方に救いの手を差し伸べる救いの場です。
開祖の親鸞(しんらん)さまが私たちにお教え下さった教えが浄土真宗です。
阿弥陀さまを信じましょう。
=他力本願 阿弥陀さまのお救いにおすがりする。救われたこと、そして今、護っていただいていることを感謝して阿弥陀さまに、念仏(南無阿弥陀仏・ナムアミダブツ)を唱える。
=称名報恩 「ありがとう!!」の気持ちが、念仏として口からこぼれ落ちる。
阿弥陀さまの国(西方浄土)に生まれかわって仏さまになったら、再びこの世に戻って、みんなを救う。
救われたこと、そして今、護っていただいていることを感謝して阿弥陀さまに、念仏(南無阿弥陀仏・ナムアミダブツ)を唱える。
阿弥陀さまに救われた私は、 今度は阿弥陀さまのお手伝いをしてみんなを救います。
という教えです。
忙しい毎日に追われ、目先のことにとらわれて、 人生において大切な意味を見失いそうになります。 親鸞さまが浄土真宗のみ教えを伝えられてから 750年以上が経ちましたが、 人生の苦悩の中で、何ものにも妨げられることのない、 常に阿弥陀さまが見守ってくださるのだと信じきることで、 力強い生き方、明るく楽しい人生を歩ませていただくことができんだ と教えてくださっています。