先祖供養・水子供養・追善法要(浄土真宗では、追悼法要)は、当院は、ホームページ、メール、電話で、来院いただかなくとも、法要をお引き受けいたします。お気軽にご連絡ください。もちろん、お悩みごとには親身になってご相談に乗らせていただきます。お布施は本当に志しで結構です。当然のことながら、ご相談者の秘密やプライバシーは厳守することを誓約いたします。これをご縁として、阿弥陀様に逢わせていただいたこの私の悦びと幸せを一人でも多くの方々に、お伝えしたい、味わっていただきたいとの信念でお勤めさせていいただきます。
さて、法要といいますと、「先祖供養」と捉えるのが一般的ですが、
これは、本来仏教でいうところの「供養」とは意味が違うように思われます
wikipedia(ウキペディア)によりますと供養(くよう)とは、
サンスクリット語のプージャーまたはpūjanā(プージャナー)の訳で、
仏、菩薩、諸天などに香・華・燈明・飲食などの供物を真心から捧げることをいいます。
日本の民間信仰では死者・祖先に対する追善供養のことを特に供養ということが多いですが、
これから派生して仏教と関係なく死者への対応という意味で広く供養と呼ぶこともあります。
また動物等に対する供養、さらには針供養のように生き物でない道具等に対する供養もあります。
本来は仏・法・僧の三宝を敬い,これに香・華・飲食物などを供えることが、
いつのまにか、死者の霊に供え物などをして,その冥福を祈ること(追善供養)になってしまったようです。本来は仏さま、教え、そして、僧侶と「ご縁」があった事を感謝する行為が供養ですが、
私達がこうして生かされている「ご縁」を喜ぶ意味もあります。
日々の生活の中で、様々な命をいただかなければ、生きられない私たちがいます。
肉や魚を食べない日はほとんどありません。
わたしたちは、命をいただくことで生かされているのです。
これは様々な命のご縁と関わり合いを持っているという事に感謝すればそれが供養です。
その事に関して感謝し布施をするのが供養で、僧侶が来てする法要を指すわけではありません。
お釈迦さまが説かれた法が、時代が下がるに従って、1970年代には先祖や水子が祟るとか迷うとか、共に生きた命として感謝する意味から、遠く離れてしまって、祟りや穢れとしての供養が占いブームと共に広まってしまいました。先祖や水子を追善供養の対象にされる場合は、「たたり」をなすような怨霊として、「先祖霊」や「水子霊」とよんでいます。
供養とは、「尊敬すること」、「礼拝すること」、「尊敬をもって受けとること」などの意味ですが、いつの間にか死者に対する追善供養、餓鬼に対する施餓鬼供養が行われるよになりました。その流れに先祖供養や水子供養になりました。身近に悪いことがあると、「先祖や水子が祟ったのでは」、「先祖が迷っているのでは」と考え、お経を追善供養に使って、「先祖に成仏してもらう」「水子の祟りを鎮める」とし、身近な禍いを除こうという考え方が、先祖供養・先祖供養という考え方にあります。
自分自身に何か問題が起こるたびに、「水子」が、「先祖」がと、水子や先祖を怨霊のように考える考え方には、仏教本来の「尊敬すること」、「礼拝すること」という供養とは、正反対の考え方なのです。
一つひとつの出来事や問題をも教えに問い、
み教えを聞いていこうというのが、浄土真宗であります。
み教えを聞くことによって、「自分中心の得手勝手な自分」を知らされるとともに、「都合が悪くなると、水子や先祖にまで責任をなすりつける恐ろしい私たちに、かかりきってくださる阿弥陀如来」に遇わせていただくみ教えが、浄土真宗です。
私たちは、この生を繋ぐために、一日たりとも食事をしない日はありません。そこで、何を食べていますか?お肉やお魚など、生ある物の命をいただかなければこの命をつなげることはできないのです。殺生せずには生きてはいけない私たちなのです。
堕胎したくて堕胎した方などこの世に一人としていません。断腸の想いでやむに已まれず、生まれて来る筈であったわが子の生を断たざるをえなかった。そんな辛い悲しい想いに阿弥陀さまは必ず寄り添ってくださいます。
そもそも、水子といえども人間であったことに違いはありません。いわゆる水子供養が数十年前から流行り出した背景には、親の罪悪感や不安感を煽り立てたということがあります。浄土真宗では、水子法要・供養として特別に法要は行いません。仏教の教えからいえば、お母さんのお腹に受胎した瞬間から、“いのち”の誕生として捉えますから、この世に誕生してこなかったけれども、当然立派な人間として受け止めるべきでしょう。
世間一般では、水子の供養をしないと私たちに祟りがくる等の迷信を耳にしますが、断じてそのようなことはありません。
何か自分に都合が悪いことが起きると、水子に責任転嫁するかのように迷いや不安をあおるような者がいますが大きな間違いです。種々の原因・理由等があるにせよ、尊いいのちが亡くなったのは事実であるわけですから、この現実に目を背くことなく受け止めていくことが大切です。
浄土真宗では、亡き人は阿弥陀様の救いによってお浄土に仏としてこの私たちを照らし続けて下さっています。つまり、通常先立たれた亡き方々と区別することなく法要を執り行います。
当院では、浄土真宗の教義と作法に則り、法名をお付けし通常の年回忌法要等をお勤めいたします。命の尊さに触れていただく仏縁として「追悼法要」をお勤めいたします。